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フランス政教分離問題と寛容さについて

数学についてのサイエンスエッセイのようなものを読んでいたので頭を切り替えて文系の本を探していた。偏った分野についての本を読んでくると飽きてくるのでリフレッシュという意味を込めて「フランス7つの謎」という新書を借りてみた。3日くらいで全部読んだのだがユーロ危機で何かと話題なヨーロッパの大国について少しわかったような気がした。

・第一の謎:なぜ政教分離をめぐって延々と議論が続くのか
政教分離とは政治と宗教を分けて考え、お互い干渉しないようにする考えである。これはフランス、日本両国に共通した考えである。

1989年「スカーフ事件」と呼ばれる出来事がフランスで起きた。内容はイスラム教の女子中学生がスカーフを被って登校し、学校側がスカーフを被るなという要請をし校門で追い返したというものだ。宗教的なシンボル(ヘジャブ)を学校のような公共施設で身にまとうことは政教分離に反するという見解であった。この事件は当時大論争を引き起こした。ヘジャブを認める是非を巡って学者、ジャーナリズム、国会や大統領までもが巻き込まれた。困り果てた政府は国務院と呼ばれる法令の最終判断を下す行政機関に判決を委ねた。結果はヘジャブを着用することは政教分離に反しない。しかし改宗や宣伝を強要したりしてはダメというものだった。結局、この女子生徒は教室ではヘジャブを着用しないことになった。しかしこれにはまだ解釈の余地が残されている。教室はダメでなぜ廊下や校庭では良いのかと疑問に持つ人もいるだろう。そういうこともあってその後国務院はヘジャブの学校での着用を違法にしたり、合法にしたりした。これでは混乱を招くだけなのでジャックシラクは2003年「公立学校における宗教的シンボル禁止案」を制定した。宗教的なシンボルというのはヘジャブだけではない。十字架やユダヤ教の帽子なども含まれる。Tシャツに十字架が書かれていてもダメなのだろうか。

日本では同じ政教分離の形をとっていても受け止め方は違うだろう。例え学校でスカーフを被ったムスリムがいても「まあ人それぞれ宗教はちゃうし、いいんちゃうのー?人に迷惑をかけてるわけじゃないし。」といった感想を持つのではないだろうか。ここにある日本とフランスの違いは何なのだろう。日本は「政治は宗教に口を出さない」フランスは「宗教は政治に口を出さない」という風に政教分離を捉えている。

フランス革命が起こる前を「旧体制(アンシアン・レジーム)」と呼ぶ。旧体制下のフランスは国教をキリスト教とし聖職者が政権を握っていた。教会や修道院は土地をたくさん持っていたので力を持っていたからである。人々は教会の鐘で時刻を知るといったとても宗教と密接な暮らしをしていた。ところが1789年フランス革命が勃発する。革命を支持勢力は「共和派」と呼ばれ旧体制を否定した。旧体制を否定すると言うことは教会を否定することであった。つまり人々の生活の中心であった教会を否定し、新しい体制の中で暮らしていこうと提案するというものだった。共和派と教会は当然仲が悪くなり分裂した。長い闘争の上、共和派が結局勝利し1905年に政教分離法を制定した。このような流れから政治や学校などの公共領域に宗教を持ちだすことは、共和派のアイデンティティを侵害するものというわけだ。

でもこれは厳しすぎるのでは?というのが僕の感想。日本人的な思考なのか寛容に「別に良くね」という風に考える。政教分離と他者の考えを尊重するという態度は日本では矛盾しないだろうと思われるがフランスでは違うようだ。

筆者は次になぜフランスが長期間にわたってスカーフ事件でもめたのかについて考察している。フランスの政教分離の経緯を考えると悩む必要もなくNOという答えを出しても不思議ではない。しかしそうならなかったのは理由がある。問題の女子生徒がイスラム教徒であったからだ。1980年代からヨーロッパ諸国ではイスラム教移民との付き合い方について活発な議論が行われていた。北アフリカのチュニジア、モロッコ、アルジェリアを旧植民地に持っていたフランスも例外ではなかった。移民はフランスの生活様式をありのまま受け入れるのではなく、自らの文化を守ろうとして周囲の人々と仲が悪くなることもあった。フランスでは国籍について出生主義をとっている。フランスで生まれたら皆フランス人というものだ。移民が増えるたびに彼らの子孫はフランス人になっていく。しかしフランスの様式を完全には受け入れていない。なのにフランス人??という疑問が浮かぶ。このような出生主義を取る国ではフランス人をフランス人にたらしめているものが必要だ。それはその国のルール、つまり法律である。フランスでは国民はおのずからそこに「ある」ものではなく「つくる」ものなのだ。国民がいないと国自体がやっていけない。政府は国民を作らなければならないのである。フランスには勿論寛容な態度を取る人もいて彼らがこのルールに疑問を呈したからスカーフ事件は大論争を巻き起こしたのだろう。

自分の宗教や異質性をアイデンティティとしている人にとってフランス政府が同化、つまりフランスのルールに従わせようとしてることはとてもおせっかいで「ウザい」ことだろう。これだけ考えるとフランスはなんて住みにくく寛容じゃないんだと思うだろう。しかしもし同化を受け入れた場合はどうだろう。フランス人と認められフランス人として生活が出来るというメリットがある。実際サッカーのフランス代表であったアンリ選手などは移民であろうがストライカーで多くのファンを魅了した。

一方で日本は血統主義である。日本国民の子は日本人であるというものだ。だからフランスと違って日本人ははじめから「ある」もので、「つくる」ものではない。ということは国民を国民たらしめているルールがないから他の国の人々がそのルールを破ることができないことになる。つまり日本国民は他の国の人々から干渉されることはないので多様性を広く受けれていることになる。果たしてそれは本当だろうか。在日朝鮮・韓国人の差別問題をみればわかるようにそんなに多様性を受け入れているようには見えない。同じ日本人の中でも他の人と違ったような人がいればその人は差別されたり嫌われたりすることが多い。
筆者はフランスの極右勢力について言及している。彼らの言い分はこうだ。「俺たちは異なるアイデンティティを尊重するぜ。でもな俺たちのアイデンティティを他の人が汚すようなことはあってはならないぜ」というものだ。違いを認めると言われるとポジティブな印象があるがここではネガティブな意味で使われている。よく国際社会について述べるとき「これからは多様な価値観を受け入れて行こう」というフレーズを良く聞く。僕はこれまでこのフレーズは否定しようもない完全な善の言葉に聞こえていた。しかし寛容さとは何かについて考えた時このフレーズは否定的な意味にもなりえる。「僕と君は違う。君の個性派大切だから僕と違っていてもOK」というのと「僕と同じようにしろとは言わない。でも僕と違うんだから、あっちに行ってよ」とでは全然考え方が違うだろう。

じゃあどうすれば良いのかという疑問に辿り着く。僕は寛容な精神を持ち、君の個性はOKみたいな態度を取りたい。でもそれを取るのは難しいと思う。単にはじめからこのような正解があると思いこみ、「寛容な精神を持とう」と心の中で念仏を捉えても素の自分が出てそれは相手への怒りだったり偏見に結び付くだろう。そういう考えの根底には「自分が知らないものは悪」というものがある。だから相手のことを良く知らないのなら相手のことを知ろうとしなければならないだろう。それについてはまじめな議論をするのが良いのかもしれないがそういうことをいきなりすると憚れることが多いし女の子に嫌われてしまうだろう。筆者は議論が必要だと述べているが僕はただ一緒にご飯を食べるだとか、一緒に学校から帰るということだけでいいと思う。同じ時間を過ごすことが何よりも大切であろう。

ある一つのフランスの謎「政教分離」について考えるだけでこれからの未来を生きていくうえでとても大切なことを考えることができたと思う。この本を読む時間はとても有意義だったと言えよう。