not good but great

プログラミング、アート、映画・本の感想について書きます。

相対主義、身体、共感

・「人それぞれ」という相対主義
あくまでも比喩だがこういう会話を良く目にすることが多いのではないでしょうか。

A「女子って陰で鼻くそほじってるよねー。」
B「それはウソだよ!女子が鼻くそほじるわけないじゃん。」
C「私は鼻くそをほじって食べる女子を知ってます。それに男子だってほじりますよね。」
一同「まあ鼻くそをほじるかほじらないかは人それぞれってことですね。」

比喩として「鼻くそ」を出していますが特に意味はありません。僕が強調したいのは様々な価値観を共有し、そして相対化するという一連の流れです。特に最後に「人それぞれ」という言葉を言っていますがこれは相対主義を象徴する言葉でしょう。

現代社会と相対主義の行き詰まり
小さい子どもの時は先生や親という大人が絶対者でした。先生の言うことは絶対正しいだろうという前提の下、僕たちの多くが学校の授業を聞いていたと思います。そんな中でもし授業中に「先生はそういう考え方だけど、私はこういう考え方です。この前●●という本を読むとまた違った考え方が書いてありました。」という意見を言えば嫌がられるでしょう。なぜなら学校の授業というのは先生の絶対性がないと授業にならないからです。英語の授業で「I am a boy」と先生が言って、僕が「僕はI is a boyが正しいと思う」と言えば授業が成り立たないでしょう。まだ小学生のころなどはよかったですが次第に大きくなるにつれて相対的な見方を誰もが養うと思います。たくさんの人と知り合い価値観を共有したり、海外旅行に出かけていろんな景色を見たりする人もいるかもしれません。またネットの発達によって簡単に他者の価値観を知るようになりましたから、今の小学生は相対主義的な見方をしていると言ってもおかしくはありません。もちろん考えに固執するよりもいろんな価値観を受け入れることは正しいと思います。しかしあまりにも価値が相対化されて自分の意見、価値観を持つことができなくなるという弊害もあるのではないでしょうか。自分が正しいと思う見方があっても瞬時に相対化され、正しいと思えなくなることがあります。僕は無神論者なので宗教に絶対者を求めることはありませんからこういうときは一苦労です。僕は自分の考えに自信を持ち批判を気にしすぎず突き進むことが大切だと思います。現代人は価値が相対化されずぎて「もう誰かにいっそのこと正しいことズバッと言ってほしい」という願いがあるのかなと考えます。日経新聞を読むと必ず自己啓発系の書籍広告が掲載されています。これは絶対的に信じるものがない人が多いという証明になるでしょう。

・身体というオリジナル性
他人の意見も上手く聞きいれながらかつ自分の意見もぶれないようにすることは本当に難しいなと日々痛感します。こうなっていくと自分の意見を良いことなのか、それは可能のなのかという疑問にあたります。すべてをオリジナルに生産することは不可能です。例えば自分の言葉でしゃべっているつもりでもその言葉は昔どこかで読んだ本のフレーズだったり、テレビで言っていたことだったりするのです。また違う例では音楽を作る際に先人たちの音楽の多少なりとも受けていることでしょう。一曲も音楽を聞いたことない人が作曲することはないですから。個人個人にオリジナルを求めるとすればそれは個人の身体だと思います。身体は皆違います。双子でも同じではないです。身体からさらにオリジナルなものは身体を経由した経験でしょう。先ほど例にした言葉のオリジナル性において言葉という「文字」そのものにはオリジナルはないですが、経験をバッググラウンドとして発していることにはオリジナル性はあります。初めて「好き」という言葉を習った子どもが言う「好き」と好きな女の子に告白する際に言う「好き」は違うということです。「好き」と言うまでに何度かデートに行ったかもしれません。友だちに告白について相談したかもしれません。そのような個人的な体験、身体性が重要なんだと思います。

・批判・賛同から共感へ
もし多くの人が身体を経由した経験をしてそれを踏まえて自分の意見を持つようになったら皆意見が違って当然です。なぜならそれはオリジナルの意見と言えるからです。言いまわしなどはオリジナルとは言えませんが。各個人が各個人に意見をぶつけ合ってもなんだか僕はもう無意味のように感じるのです。経験に経験をかさね出た意見を否定されたりしたら僕としては敵いませんし譲りたくないです。それはもっと寛容に認めたり共感することのほうが大切だと思います。ここに置いての寛容はオランダに見られるような多民族社会の寛容ではありません。どういうことかと言うと「私はあなたの考えを認めます。しかし私の考えに干渉したりしないでください」というようなものです。このとき私は相手の考えの内容について詳しく知る必要はありません。僕が前述した共感はこれと違って相手を知ることが必要です。共感は相手を理解せねばできません。

・共感するにはどうしたら良いか
相手を理解するにはどうしたら良いのでしょうか。一つの方法にたくさんのコミュニティに所属してみることです。各コミュニティのルールに従ってみて相手と対話するのです。もう一つの方法は読書です。これは自分の中に他者を想像し対話するというものです。他者と言っても想像上のものですから自己との対話になります。コミュニティにたくさん所属してみることと同じように読書もいろんな本を読むことが重要でしょう。

・これからのイメージ
若い僕が悟ったように語るのは恐縮ですが共感は一回で終わるものではないと思います。他者と対話し、本を読み、共感し・・・そういうサイクルがずっと永遠に回り続けているイメージです。最初に書きましたが相対主義は一見たくさんの人のことを知っているようですが自分を見失ってしまっては良くないです。それは身体を経由した経験、共感というようなことを飛ばしてまるで一つの作業の他者の価値観を知ってあたまでっかちになっているだけなのかなと思います。僕は「書を捨て街へ出よ」ではなく「書は捨てずに街を出よ」のほうに賛同します。

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