not good but great

プログラミング、アート、映画・本の感想について書きます。

「基礎」を学ぶのには時間がかかるので、否定しにくい。

京都の伝統文化を学ぶ授業で、ゲストスピーカーとして冷泉家の方が来られた。冷泉家は藤原定家の子孫にあたる家系で、和歌の伝統を継いでいるようだ。冷泉さんは授業の中で「型」を学ぶことの重要性を説いており、新聞記事のスクラップなどを紹介していた。

スクラップの内容

記事1:「暗誦・素読が応用生む」
新聞のスクラップの一つに斎藤孝氏を紹介した「暗誦・素読が応用生む」という記事があった。

◆暗誦・素読が応用生む 
 学習は頭でするものと思い込み、体を軽視する風潮が戦後広がった。しかし人類の歴史を振り返ると、勉強と身体とは切り離されたものではなかった。
 学ぶときは、あいさつや立ち居振る舞いなど「型」から入るというのが先人の教えだ。心と身体のセットである「構え」が学生の側になければ、先生が何を言っても学生には届かない。自分で自分をコントロールして構えを整えられる能力が、知性や教養と呼ばれるものだろう。身体や「型」を通じた学びのあり方を取り戻す必要がある。
 情報は必要な時にインターネットで調べればいいと考えられるようになった。だが暗誦(あんしょう)できるものが教養であり、「暗誦していないものは実は身についていない」とさえ言える。文章でも計算でも、反復して自家薬籠(やくろう)中のものとし、いつでも再現できるようになることが本当の「わかった」という状態だ。
 音読で書物に向き合い、作者の思考方法を身をもって感じる素読も重要な型だ。自分を空にして素直になれば、作者の思考のリズムが乗り移り、自分の声が作者の肉声に変わっていく。まるで私塾で師に従うように、読書が作者に同化し身を預ける行為になる。
 物理を学ぼうという人が、ニュートンやアインシュタインが確立した学問体系を素通りして創造性を発揮できるわけがない。だが現代人は、先人の蓄積を飛び越して個人の創造性がいきなり生まれると思いがちだ。これは素朴というより無知に近い。文化は積み重なるようにしか発展しないのに、「別に何も知らなくてもいいではないか」という開き直りの態度が幅をきかせるようになった。
 自由にやりたいという若者の気持ちもわかるが、その自由自体が、型や反復でしか身につかない技で維持されている。自分のやりたいようにやるだけなら、それは単なる自己流で、それ以上は伸びない。型を身につけた人は余裕ができ、複雑な課題も考えずに処理できる。先人が編み出した究極の学習法が型なのだ。
 ただ、3か月やって1キロもやせないダイエット法では誰もついてこない。もはや「黙ってやれ」では通用しない。教師は「これだけ暗誦したら作文がうまくなる。信じて一度やってみて」などと説明して型の効用を納得させ、型が応用につながるという意味を理解してもらう必要があるだろう。(聞き手・山田哲朗)


記事2:「型」の体得 学びの原点
次に裏千家の千宗室家元を紹介した記事もスクラップしていた。

釜の湯をみる、茶せんを回す、茶わんを渡す――。茶席での作法は同じに見えて、実は毎回違う。
 同志社大学などで茶道の講義を持つ裏千家の千宗室家元(51)は「客人に応じた所作が無意識にできるには、基礎修練ができてこそ。『守(しゅ)・破(は)・離(り)』を踏む必要がある」と言う。
 伝統芸能の世界では、師匠はまず弟子に基本形を教え込む(守)。弟子はやがて枠を飛び出し(破)、ついには自分なりの境地に至る(離)。
 テレビや映画でも活躍する狂言師野村萬斎さん(42)は「基礎となる『型』は、知識ではなく体得するもの。型にはめるのは没個性のように考えがちだが、使いこなすうちに型は様々な個性や表現となっていく」と指摘する。
 「詰め込みこそ真の教育だ」「型がなくておまえに何ができる」――。人気漫画「ドラゴン桜」では、破天荒な教師が徹底した指導で高校生を東大合格に導く。作者の三田紀房さん(50)は、「若者は『個性的でなければ』と思い詰める。実際に必要なのはまず慣れること」と言う。三田さんは、入門したてのアシスタントに先輩が描いた過去の漫画を模写させ、画風を学ばせる。型を仕込む現代の徒弟制だ。
 芸や技の習得で型が果たす役割を、一般の学習で担うのは教養かもしれない。型をキーワードに教養教育を考える葛西康徳・大妻女子大学教授(52)は「相撲なら四股(しこ)を踏むように、勉強でも、まず足腰を鍛える過程が必要なのに、いきなり自由演技という例が増えている」と基礎軽視の風潮を懸念する。
 教養主義を守るパブリック・スクールや日本の旧制高校などでは、古典の教科書や厳格な共同生活が型となった。型が育てた論理力や精神力は、その後の学問や人生を支える土台となった。
 1949年、戦後、日本人として初めて米ハーバード大学に入学した久保正彰・日本学士院長(77)は、「自由の国」で意外な規律に遭遇する。
 芝生を横切った生徒は即日退学、万年筆を使う生徒は「ぜいたくだ」と取りあげられた。豪華客船タイタニック号に乗り合わせた多くの同大卒業生が、沈没時に泳げず死んだとして、200ヤード(約180メートル)の水泳さえも教養科目の一つと見なされていたという。
 久保さんは「学んだのは日本語で言えば『しつけ』だった。教養はそれぐらいの深い根がないと育たない」と振り返る。
 「まなぶ」という言葉は「まねる」から派生したとされる。技の伝承の仕組みを研究する生田久美子・東北大学教授(60)は「師匠の動きを単にコピーすることが、やがて意志や共感を含む『型』に発展していく」と分析する。
 「学ぶ行為の根底に『型』が潜んでいることを認識する。そのことが、混迷する今の教育を変えていく契機になるだろう」

講義の感想

僕は伝統芸能において、「型」を学ぶことが良い成果を生み出すとはわからないと思った。

理由1:伝統芸能を継承する人口が少ないから
記事では茶道や狂言の第一人者にインタビューして、「型」の大切さを説いている。しかし僕は、伝統芸能を継承している人がもともと少ないので、「型」を学んだ人が本当にすごいのかよくわからないと思う。「型」を学んだ人と「型」を学んでいない人のサンプルがもっと多くないと、何とも言えないと思う。

理由2:「型」を学ぶのには時間がかかり否定しにくいから
伝統芸能において、「型」を学ぶのにはおそらく相当な時間がかかる。歌舞伎の世界だと、生まれてすぐに稽古が始まり、3~4才で舞台に立つというニュースも耳にする。記事でインタビューされている方が40~50代ということを考えると、それまで「型」を学ぶために使った時間は相当なものだ。だから「型」を学ぶことは意味がなかったと言えば、それまでの自分の人生を否定することになるので、「型」を学ぶことは必要と言わざるを得ないのだろう。

これは伝統芸能についてだけではなく、記事1,記事2両方について言える。「型」というのは基礎とも言い換えられる。「基礎ができないと応用はできない」と言うのはよく聞き、なかなか否定できない文句だ。僕は基礎と応用の2つに分けて考える必要性を感じない。これは基礎、あれは応用とわかって何か良いことがあるのだろうか。基礎を学ぶのは時間がかかり、面倒なことも多いので、基礎を軽視する人を見ると腹が立ち、自分は苦しんで基礎をやってきたのだから偉いと単に言いたいだけのように思える。基礎をあまり学ばずに要領よく成果を生み出す人に嫉妬してるだけだと思う。そのように成果を生み出せる人は、本当に重要なものだけに時間をかけているのだから、むしろそちらのほうを手本にしたほうが良い。