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最初、ポートとキットが自転車で高台に向かうシーンがある。キットはおしゃれな赤い帽子をかぶって、二人高野を走っていく。そこでゴールドラッシュに湧いていた1848年に作られた「おお、スザンナ(Oh Susanna)」を歌うのだ。
Oh! Susanna,
Oh don't you cry for me,
I've come from Alabama,
With my banjo on my knee.
モロッコの荒野を駆け抜けるとき、アメリカ民謡を二人で歌う楽しさ、陽気さが伝わってきて、とても好きな場面だ。
しかしそれまでのおしゃれなシーンとは裏腹に、いざ高台につくと、二人の心の距離は遠く、まるで通じ合っていないことが伝わる。上の写真はそれが最も伝わってくるシーンだ。キットはこの時、孤独を恐れないポートのようになりたいと言っている。
ポートが死んで、キットは見知らぬ土地で孤独になるも、さらに砂漠の奥地へと旅を続けていく。ポートが死んで、呆然としており、後はどうなっても構わない死ぬだけだ、ポートが死んで改めてタナーとの情事を悔やんでいるのかもしれない。ポートをもっと素直に愛していれば、と心あらずの状態でなりゆくままにトゥグレグ人と体を交わしてしまう。しかしそのような見方は理想を追った男性的な見方なのかもしれない。ポートが死んだ時にキットは以外にも冷静な顔つきをしていた。すぐに部屋を出て、キャラバンのところまで行っている。女性はとても切り替えが早いのかもしれない。
キットはトゥグレグ人の離れ小屋のようなところに身を置くことになる。そこで彼女は、日記を切り刻む作業を行う。当初はキットが小説家という設定もあったことから、小説を紙に書いて吊るしているのかと思った。しかし、製作者たちのコメント入りで映画を再生すると、日記と言っていた。その文面を見てみると「Am I Blue?」という文字が見えた。キットは何を書いていたのだろうか。余談になるが、監督ベルトルッチの前作「ラストエンペラー」では主人公、溥儀が「I am blue.」という歌を歌うシーンがある。
人は自分の死を予知できず、人生を尽きせぬ泉だと思う。 だが、物事はすべて数回起こるか起こらないかだ。 自分の人生を左右したと思えるほど大切な子供の頃の思い出も、 あと何回心に思い浮かべるか?せいぜい4,5回思い出すくらいだ。 あと何回満月を眺めるか?せいぜい20回だろう。 だが、人は無限の機会があると思い込んでいる。
最後は原作者ボウルズ自身が出演し、上の言葉を残して終わる。ああこれはキットがポートを、ポートがキットをうまく愛せなかったことを言っているんだと、エンドロールを見ながら思ったり、シェルタリングスカイとは何から守っていることを言っていたのだろうと疑問に思ったりした。良い映画は映画を見て感じることがたくさんある。この映画は良い映画と間違いなく言える。