町田康「私の文学史: なぜ俺はこんな人間になったのか?」
星:4.5
町田康によるNHK文化センターでの講演をまとめた本。生い立ちからバンド活動、作家活動における自分語りを行っている。町田康の独特の文体がどうやって生まれたのかがわかって興味深く読めた。読んでみて思ったのは町田康は「言葉」に非常に重点を置くクリエイターであること。そして本音と建前の本音を重視すること、もっと平たく言えば真実を知りたい、本当のことを知りたいという欲求が人よりも強いということだ。筆者は「本当のこと=おもろい」と考えている。
小学生の時に「物語日本の歴史2」という本を読んだそうだ。これは日本の歴史を小説形式で学ぶという本。ちょうど「まんが日本史」のような本の小説版と思ってもらって差し支えない。小学生にとっては難しい語彙が多分に含まれていたそうだが狂ったように読み漁った町田少年は幼少期から大量の語彙を獲得した。その語彙は難しくて古い日本語が大半であった。たとえば「〜さん」のような言い回しを「XX卿」と呼ぶことがあるがそういう言い方を習得して、普段の言葉遣いも昔の日本語に近い語彙だったらしい。このあたりから普通の人とは違う子供になっていてどんどん偏屈になっていった。
日本史の本から小説や詩なども読み漁ったがどれもしっくりこなかったらしい。これは建前の言葉多かったから。「普段友達と話している言葉と全然ちゃうやんけ、ぼけえ」「物語なんて全部嘘やんけ」と思っていたときにフォークやロックと出会う。歌のメッセージ性から本音の言葉への期待が高まりパンク歌手になる。アカデミックな詩の素養がバックグラウンドになるニューヨークパンクと中卒が叫ぶロンドンパンクがあり、町田康はより本能的なロンドンパンクに傾倒する。でも音楽的にそこまでフィットしなくて歌詞を書くようになる。中卒に書けるなら俺にも書けるやろというノリだったらしい。本音書こうにも歌詞を書くとなるとどうしてもカッコつけた言い回しになってしまう。周りのミュージシャンも「ロック辞書」「パンク辞書」のようなよく使うフレーズ集から言葉を選択して歌詞を書いているように感じていた。
このカッコつけから本音に近づけるための調整作業が町田康の文体の確立の基礎となる。小説を書くようになってからこの作業はより高度になっていく。カッコつけた文章だけだとダサいのでわざと劣った文章を混ぜたり、全体の統一的な表記を崩したり、方言を混ぜたりしていく。このようなノイズを混ぜていくような工程を踏んで文章を作っていくところが興味深い。テクニックの話になったが町田康は「本当のこと=おもろい」と考えている。この「おもろい」という言葉の意味は人が興味深いと思うことも含むし、笑えるという意味も含んでいる。だから町田康流の文体を突き詰めると「笑い」が生まれるのだ。本人も「小説家で何を表現しているのか」と聞かれれば「笑い」と答えるそうだ。「浄土」という短編集で「本音街」という短編があり、これはなんでも本音で皆が語るという設定。あまりにも本音を言いまくると「そのシチュエーションでそれは言わんやろ」的なボケが自然と生まれておもしろくなっていく。すごい町田康っぽいストーリーなのだ。これだけだとコメディ小説家になってしまうのだけど、「告白」という長編小説では「本音を言う」ということを文学的に最高レベルまで昇華させている。
町田康は近年、日本の古典の翻訳も行なっている。「宇治拾遺物語」の翻訳も読んだけど町田節が炸裂している。翻訳でも町田康の考えがベースで要は昔の話をそのまま翻訳しても現代の人にとっては身近ではない。だから現代の人にでも身近な言葉遣いで翻訳する。若者言葉も当然翻訳で使うし、なんならその時代に存在していないもの、「六本木ヒルズ」とかも言い回しで登場させてしまう。ストーリーはほぼ変えていないが翻訳のギリギリを攻めていて面白い。
本音の言葉を追求し続ける町田康。改めて面白いと思った。