http://lmaga.jp/meets/
「知っている」店
「知っている」店について書かれていたので、感じたことを書いてみる。
「知っている」店は2通りに分けることができる。
- 「知っている」店
- 店の人の顔がわかる店
- 店の人の顔がわからない店
1.店の人の顔がわかる店
筆者はグルメサイトに載っている情報を頼りに、店に行くことを好まない。お店の人がどんな人なのかということは、値段やメニューなどのデータからはわからないからだ。
大阪の、とあるお好み焼き屋ではカウンターに座ったへべれけなおっちゃんが、メニューに載っていない目玉焼きを食べているという。それはお好み焼き屋のオバハンの気まぐれメニューでもないし、常連しか知らない隠しメニューというわけでもない。だから僕がそのお店にいきなり行って、目玉焼きを注文しても、嫌な顔されるだけだろう。大変野暮な行為だ。
マクドナルド、スターバックスのように世界中どこでも同じものを食べられ、飲めるお店に通い慣れていると、お店がシステム化されているのは当たり前だと思うだろう。500円払えば、500円分のものが食べれて当然であると思いがちだ。また「お客様は神様だ」という考えに便乗して、偉そうなことを言う客もいる。日本と諸外国の接客態度を比較して、日本のホスピタリティやおもてなしの心を称賛する声も聴くことが多い。おもてなしの心はお店の人とお客さんの間で、お互いに気を遣いながらコミュニケーションできて、初めて成り立つものだと思う。
目玉焼きを出すお好み焼き屋では店のルールがあり、店のオバハンが偉い。マクドナルド気分で訪れてしまうとしっぺ返しを食らうだろう。不公平でえこ贔屓があるお店から筆者は、世の中のことを多く学んだと言う。そこがおもしろいと思った。
悲しいかな、僕には店の人の顔がわかるお店がない。外食をほとんど牛丼屋などのチェーンで済ませてしまうことや田舎に住んでいることもあってお店で食べることがあまりない。一番外食する場所は、学校の食堂だ。しかし、店員の顔はわかるが、名前も知らないし、会話もしない。例外的なメニューを頼むこともなし、カウンターで座って待っていても、スマホでTwitterを見ているからお話にならない笑。
友達が「知っている」店に誘われたことはある。地元にある居酒屋だ。地元の友達がたびたび訪れている店であり、大将とは親子ほどの仲だ。初めて行ったときは、強面の大将にビビったが料理の味はとてもうまい。カウンターでいつも食べるのだが、大将が時たま話しかけてくる。何か飲むか?、いいXXがあるでうまいでなど言ってきて、いきなり話しかけられておどおどしている僕を横目に友人はさっとかわしたり、のったりしている。決して友人と僕だけの空間で飲んでいるような感じはせず、向かいに大将ありという緊張感を感じることができる。これはいつも訪れている食堂やチェーンにはない良さであり居心地のワルさだ。
2.店の人の顔がわからない店
牛丼屋やシアトル系のコーヒーショップ、ファミレスがこれに当てはまる。筆者はこのような店に好意的な意見を持ち合わせてはいない。僕は店員とのコミュニケーションという点では、これらの店ではゼロなので良い店とは言えないが、こういう店にも思い出がある。
- 浪人生の時に毎日行っていた松屋。
流行のJPOPがガンガン流れている中、ビビンパ丼を食べて、ごちそうさまも言わずにさっと出ていた。
- 勉強がひと段落してから行っていたラーメン屋。
前にも書いたことがあるが、予備校仲間でよく言っていた。センター前、センター後など気がめいるようなプレッシャーの中、ただただうまいラーメンを食うことによって志望校も違うやつらだったが、一体感があった。
- 就活の時に夜行バスで新宿で降りた後、毎回行っていた歌舞伎町の松屋。
ここには体の大きな中国人おり、味噌汁を出すのをたまに忘れる。夜行バスで寝れず、腹もすいていて疲れ切っているので、文句はいつも言わない。ここに来るお客さんはざっくばらんで何の仕事しているのかわからないやつらばかりだ。髪の毛が緑の外国人がぶーぶー店員に文句を言う中、かっかと牛丼を駆け込んだ。
もし友だちとこれらの店に訪れることがあるならば、思い出を語ってしまうであろう。お店の人なんてどうでもいいと言えばさみしいと思われるかもしれないが、実際にお店の人と会話をしなくても過去の状況や思い出を店と結びつければ、店への思いがないわけではない。だから「チェーン=人間味のない良くない店」とは思わない。