マスプラの稲着さんのディスカッションを見て感銘を受けた僕はすぐさま稲着さんのtweetやブログやらを見て吸収できるものは吸収してやろうと思った。なんて影響を受けやすい性格なんだろう!!
・全体的な内容
学生紛争に熱心な活動を続けた著者は途中左翼の限界を感じる。アメリカにコンプレックスを持ちながらもアメリカに留学。そこで熱心に勉強に励む学生を見て衝撃を受ける。また日本とは違い、方法論・理論の基礎教育が徹底されていたのに気付く。日本教育に甘やかされていた著者はめちゃめちゃ努力し学者になった。
「方法論わかってないと何もわからんでしょ」的なスタンスが心地よかった。
・個々の内容について
★原因と結果
「酒飲んだので酔ってしまった」という事例に対して考えると原因は「酒を飲んだこと」結果は「酔ってしまったこと」である。またこの二つの論理的な結びつきは「仮説」と呼ぶことが出来る。
複数の「仮説」があるときそれら全体を「モデル」と呼ぶ。
★記述と説明
自殺率や離婚率を調べてデータを取ることを「記述(description)」という。一方「なぜ自殺率が増加したのか」という疑問に原因と結果を踏まえながら答えることを「説明(explanation)」という。
★リップマンの三角関係
大洋の真ん中に一つの島があった。島にはドイツ人、フランス人、イギリス人が住んでいた。島には60日に一度だけ郵便船が来ていた。島民はある殺人事件の公判が気になってしょうがなく次の郵便船が来るのを待っていた。大変平和な島であった。しかし次に来た郵便船は「第二次世界大戦勃発」を報道していたのである。島民は互いが敵対国になっていることにびっくりしたという。
これからわかることは「頭の中で浮かんでいる映像」と「現実で起こっていること」は必ずしも一致しないということである。リップマンは「我々の頭の中にある映像」「その映像に向かって働きかける我々の行為」「現実の世界」に三角関係が成り立つことを示した。
★概念と経験的事実
「経験的世界(empirical world)」という暗闇があって光を充てるサーチライトが「概念」である。そして照らされた部分が「事実(fact)」である。照らされてない部分は「残余カテゴリー(residual category)」という。「概念」が修正されるとサーチライトの光が増えたり、充てる角度が変化したりする。
この新しい概念を作ることが知的創造で一番大切。
★デュルケムの「自殺」
フランスの社会学者デュルケムの著作に「自殺」というものがある。それは「プロテスタントのほうがカトリックよりも自殺率が高い」ということを調べたものだった。これにおいて重要なことは「社会的結合」が強いと「不安」が少なくなり自殺率が低いという「理論」があるということだ。
「概念(concept)」を具体化したものを「指標(indicator)」という。「概念」が観察すべきものについての一般的な定義であるならばその「指標」は具体的な観察という「作業(operation)」を行うための具体的な定義である。そのため概念を代表する指標は「作業定義(operational definition)」と呼ばれる。
さきほどの話に戻ると、社会結合という「概念」は、宗派という「作業定義」によって具体化されている。同様に不安という「概念」は自殺率という「作業定義」によって代表される。「社会結合」と「不安」には因果関係があり相互に結ばれて「理論(theory)」を構成している。同じように「宗派」と「自殺率」という二つの作業定義は「仮説」を構成している。仮説を証明する具体的な証拠が現れるほど理論の信頼性は増すのである。また仮説は一つではないということに注意したい。「プロテスタントの国ほうがカトリックの国よりも自殺率が高い」「ドイツにおけるプロテスタント地方のほうが・・・略」という風な仮説も立てられる。
この「理論」の適用範囲は広い。「独身者のほうが既婚者よりも自殺率が高い」という風にもできるので応用が利く。デュルケムはユダヤ人の自殺率についてもこれを適用した。ユダヤ人社会は教育水準が高く、都会に集中し、商業活動に従事する者が多かった。また教育水準も高かかった。いずれも自殺率の高い集団の特徴ある。しかしデュルケムは自殺率が低いと予想した。理由はユダヤ人はキリスト教社会が迫害されていたのでユダヤ人同士の結束が強かったからである。
★因果関係を満足させる3つの条件
1.独立変数の結果が従属変数の結果に先行する
2.両変数間に共変関係がある
3.他の重要な変数が変化しないという条件を確立させる
★世論調査
・テラリーダイジェスト
電話帳と自動車登録帳からランダムに200万人選択→自動車を持っていない低所得者がルーズベルトに投票した。
・ギャラップ
有権者人口の特徴からサンプリングした。
・確立無作為サンプル法
全有権者から無作為にサンプリング。
★単変量解析/二変量解析/多変量解析
・単変量解析
「カーターを支持、不支持、わからない」だけ。
・二変量解析
「カーターを支持、不支持、わからない」かつ「男性か女性か」
・多変量解析
「カーターを支持、不支持、わからない」かつ「男性か女性か」かつ「黒人か白人か」・・・etc。
多変量解析を行うことで二変量解析ではわからなかった隠れた変数が出てくることがある。
★プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
プロテスタント信者には産業界の指導者、熟練者などの上層階級が多かった。一方カトリック信者は下層階級が多かった。マックス・ウェーバーは宗教的信仰と社会階級に相関関係を歴史的因果関係に翻訳できるのではないかと考えた。つまりプロテスタンティズムが資本主義の発達の要因、少なくとも一つの要因ではないかと考えた。
中世のキリスト教とは違い、近世のプロテスタンティズムとくにカルヴァン主義の倫理は現世における経済的成功を積極的に評価する要素を含んでいた。
・ウェーバーの言い分
17世紀中葉にスイスのカルヴァンによって提出された教義がやがて18世紀のイギリスのピューリタンの資本主義の精神に現れた。
・反論者の言い分
17世紀のスイスのカルヴァンが現れる前に近代合理主義に根差す資本主義の精神が現れていた。つまり15世紀のヴェニス、16世紀アントワープにはすでに合理主義に基づいて利潤追求する近代的な資本主義が起こっていた。当然近代資本主義
・マルクスの仮説
経済的要因:独立変数
・ウェーバーの仮説
非経済的要因(宗教的要因):独立変数
宗教的要因が経済的変化を説明できると主張。
マルクスとウェーバーの論理は「ニワトリと卵」の論理である。この原因は実験的方法のように情況的操作の行えないサーヴェイ・リサーチの場合になるとふつう被験者に質問してデータを得るので実験のように変数間に時間的順序がはっきりしないことにある。
ウェーバーにとって宗教と経済活動との関係強い問題意識があった。プロテスタンティズムの倫理を踏まえてインドの宗教、中国の宗教、古代イスラエルの宗教を分析したがプロテスタンティズムの倫理のようなものはそれらの国に見つからなかった。ウェーバーはこれが中国やインドが近代資本主義を発展できなかった原因だと考えたが宗教的要因以外にも原因があるかもしれないと思っていた。この疑問に答えるためにウェーバーは経済的条件という変数を統制しようとした。すなわち彼は資本主義が発達する以前の前近代の中国やインド社会において西洋社会を同様な経済的発展があったと主張した。西洋と比較して遅れているならば非西洋諸国で近代経済が発達しなかったのも理解できる。しかし劣っていなかったので中国やインドには宗教倫理が欠如していたのではないかと結論付けた。
日本について考えてみるとおもしろい。徳川時代における神道、仏教、儒教にはプロテスタンティズムの倫理と同じ「勤勉、節約、経済的成功」などを評価する倫理があるのである。
★ジャーナリズム
・ジャーナリストは政治的意見を主張するべきという人とジャーナリストは情報のゲイトキーパーとなるべきという人がいる。
・ジャーナリストは情報のゲイトキーパーとなるべき
ゲイトキーパーとはジャーナリズムの役割を一つの社会の文化活動の重要な機関であるとする考えである。いかなる社会でも伝統的な価値体系に支えられた文化を持っている。その文化が連続しなければ社会は統一を失い解体してしまうであろう。しかしながらその一方で現実の変化とともに変容を重ねて行かなければならない。さもなければ社会は硬直化してしまうだろう。ジャーナリズムにとって、このような文化の連続と変容とに貢献する道は何か。それは現実社会を認識しその認識を現実への、直接的接触が限られている公衆に伝えることである。このように現実を認識しその結果を公衆に伝えると言う仕事は、まさに文化の内容を選択しあるいは拒否して、なにを公衆に伝えるかを決定する仕事でもある。その意味でジャーナリストは情報の門番である。
ジャーナリストには大量の情報から情報を取捨選択する能力が求められる。ジャーナリストが取捨選択する基準はその人の論理にある。その論理によってニュースを客観的にさせることが重要である。
・ジャーナリズムの働きにおいて重要な3つのこと
1.意見や論評を行うよりもまず先に論理性と科学的分析の確実さによってゲイトキーパーの役割を果たすこと
2.ゲイトキーパーの立場をとることは読者の合理判断を強調することになる。読者に客観的な情報が伝えられれば彼らは自分の利益を自分で判断するであろうという前提があるのである。
3.世論の形成に関してゲイトキーパーは公衆の間にある意見のうち一致する部分はなんであるか、不一致の部分は何であるかを明確に示すことが可能である。さらにその一致する領域を拡大することも可能である。すなわちジャーナリズムはメディアのよる大衆操作を避けながらしかも民主主義社会における、政治的な同意形成に貢献することができるのである。
●全体的な感想
論理がテーマな本であるが扱う題材が社会科学に関するものであったので新鮮だった。論理よりもウェーバーの考え方とか歴史認識のほうに目が行ってしまった。
論理がなければ何も考えられないと思う。シュールレアリスムを意識した支離滅裂な発想はできるかもしれないが論理がなければちゃんとした考えは出てこない。論理を学ぶことは方法論から入ることと捉えて毛嫌いする人もいるだろう。しかし論理とは思考の基礎となるからその上に立つ発想は生まれない。発想のために頭を働かせれば自然と論理なんて身につく人いるだろうが、そんな人は一部の人たちだけだ。なぜなら論理的に考えることは日本の学校ではあまり教えないし日本人はよく「マネ」から入るかだ。「マネ」から入ると言うか「マネ」で終わってしまう。それはなぜかと言うと論理がないから。それに到達するまでの過程を理解しないとその先の新しい発想は生まれない。また屁理屈な人は過去の人の発想や歴史を学ばなくても新しい発想はできるというがそういう人はどうやって新しい発想と古い発想を区別するのだろうかと聞きたい。自分が新しい発想と思っていても古い発想かもしれないぞと。
論理に興味を持ったので似たような本をどんどん読んでいこうと思う。