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清水義範「青二才の頃 回想の70年代」を読んだ感想と、「モーレツからビューティフルへ」の70年代

青二才の頃―回想の’70年代 (講談社文庫)

青二才の頃―回想の’70年代 (講談社文庫)


先日、ニコニコ動画で志の輔の落語を聞いた。「バールのようなもので」という創作落語で原作があると知った。それが作家、清水義範が書いた「バールのようなもので」という短編だ。早速ブックオフに行き、彼の著作を探して、いくつか買った。その一つが今回読んだ「青二才の頃 回想の70年代」である。

当初は、70年代のことを元ヒッピーの著者が語るというような、よくある話だと思っていたら、全然違った。清水さんはそもそもヒッピーでもなくて、どちらかというとそういうものに対して、冷めた目を持っていた人だった。この本は作家、清水義範が目まぐるしく変わる世の中で、サラリーマンをしながら、小説家を目指すという物語だ。多少脚色はあるとは思うが、ノンフィクション。筆者がファッション関連の仕事していたことから、70年代の文化・風俗について当時を生きていた人の目で書かれているのでとてもおもしろかった。

モーレツからビューティフルへ

1970年代はどういう時代だったのかを強く示すCMがある。富士ゼロックスの「モーレツからビューティフルへ」というCMだ。

FUJI XEROX 加藤和彦 TV CM Ad Commercial ...

ここで使われている「モーレツ」は前年、丸善石油のガソリン100ダッシュのCMから引用している。

猛烈ダッシュ - YouTube
引用すると同時にこの「モーレツ」は、60年代の働き過ぎのサラリーマンの生き方そのものでもあった。高度成長時代に、ひたすら働きまくっていたサラリーマンに対して、そろそろ「ビューティフル」に生きましょうよと呼びかけたのである。

60年代も終わり、昔みたいにモノがないということはなくなり、物質的に豊かになった。そのような流れの中、「豊かになったこの世界でどう生きましょうか」というような問いがあったという。

8月に歩行者天国が登場したのもその現れと言われている。「道路から車を締め出して、楽しく遊びましょう」ということだ。


1970 国鉄 DISCOVER JAPAN - YouTube
当時の国鉄は「DISCOVER JAPAN」というキャンペーンをした。これは、「働き詰めだった日本の皆さん。ここで一度歩みを止めて、自分が日本人だったことを思い出し、日本ってどんな国なのかを見てみましょうよ。」というコンセプトで実施された。70年3月に創刊された雑誌「アンアン」は当初、ファッションと情報を主に掲載していたが、このCMの頃、旅行という柱をもう一つ用意することにした。京都特集をたくさんやることで、若い女性はこぞって京都へ旅行したそうだ。今で言うなら旅女子と名付けられるのかな笑。

今と比べて新幹線は充実していないし、舗装さえされていない町もたくさんあったと思う。乗り継ぎも悪かったかもしれない。そう思うと、今日本を鉄道で旅行するよりもよっぽどパワフルで、サバイバルな旅行になったことだろう。女の子も大変だったとは思うが、それに負けない「まだ見ぬ日本をちょっと見てみたい」という気持ちがあったのだろうか。インターネットもない時だから、今のようにすぐ検索して、町の様子を伺えるわけでもない。とても楽しい旅行だったと思う。

他にも「モーレツからビューティフル」に似たCMがある。

MOBIL - YouTube
「のんびり行こうよ。あせってみたって何になる。」という映像に、「クルマはガソリンで動くのです。」というオチ。

「モーレツ」な匂いが残っているCMもあった。

中外製薬 新グロモント - YouTube
「ガンバラナクッチャー」という流行語を生み出した、新グロモントのCM。「モーレツ」をユーモラスに表現しており、どこか皮肉っぽいこともあり60年代ではなく、70年代っぽいと筆者は言う。今で言うとメガシャキのCMが該当するのかなあ。

1970年代に起こった出来事

1970年3月:大阪万博が開かれる
パビリオンとマルチスクリーンが流行語になったこの年、万博は異様な熱気であったそうだ。どこか浮ついてる感じもあった。筆者は就職活動中だったので、冷めた目で見ていたようだ。

1970年3月:よど号ハイジャック事件
万博が3月に開始され、そのあとのすぐにあたる3月31日に、日航機よど号が赤軍派学生らに乗っ取られる。犯人は日本刀を持っていたそうで、こわいなあと思いつつも、筆者は至って冷静にテレビを見ていた。就職活動中にそのような学生を見て、自分と同じように青春の中でギクシャクしているのだろうと思ったという。

1970年11月:三島由紀夫の割腹自殺
11月に三島由紀夫が自殺する。筆者は三島由紀夫のことをあまり知らなかったので、文学的なショックは受けなかった。しかし死に方が異常だったので、よく覚えているという。大学に行ってたら同級生の間で、その話題が出てみんなといろいろ話したらしい。

1972年2月:浅間山荘事件
軽井沢保養所「浅間山荘」にて、連合赤軍過激派が、管理人の妻を人質として籠城した。NHKと民放を加えた当時の視聴率は98.2%に達した。まだビデオが登場していないときだったせいもあるが、それにしても凄まじい高視聴率である。

1972年7月:田中角栄が首相になる
田中角栄は首相になる前に「日本列島改造論」という本を出版している。これは日本中に新幹線と高速道路を走らせて、すべて都会にしてしまえば貧しい田舎はなくなって景気が良くなる、という考えを記した本である。このような試作を行うと、日本中の土地の値段が上がり、それに関わった人々が大変儲かることになる。

1974年:ジョギングが流行、エコがブーム
ジョギングという言葉がアメリカから輸入され、スニーカーを履いて走ると地球にやさしいという風な考えが広まった。エコの考え方は90年代になってから全盛を迎えるのだが、70年代には「全地球カタログ」「緑色革命」のようなエコについて書かれた本が始めて出版された時代だった。

伊勢丹は「木綿と木」をテーマにしてキャンペーンを行った。木綿は環境に優しい素材を使用したファッションを展開した。一方、木ではニスを塗っていない白木の家具を販売した。実際が使ってみると、手あかで汚れが目立つ家具だったようだ。

1970年代の音楽

年代 歌手名 曲名
1971年4月 小柳ルミ子 わたしの城下町
1971年6月 南沙織 17才
1971年10月 天地真理 水色の恋

3人娘のデビューである。

年代 歌手名 曲名
1972年 吉田拓郎 「結婚しようよ」「旅の宿」

それまでのフォークソングと言えば、反体制であり、反戦や学生の自由ばかり歌っていた。上記の2曲では「ぼくの髪がきみと同じ長さになったら結婚しようよ」とか「ゆかたのきみは妙に色っぽいね」というようなことを歌っている。これまでの反体制な曲とは待った違うフォークの誕生である。

年代 歌手名 曲名
1972年 森昌子 せんせい
1973年2月 桜田淳子 天使も夢見る
1973年5月 山口百恵 としごろ

中三トリオと上の三人は呼ばれていた。テレビ番組「スター誕生」からデビューであった。

1970年代のファッション

DCブランドの前身、マンションメーカー
「マンションメーカー」というものがあった。オフィスを持っていなくて、マンションの一室をオフィス兼製造工場のようにして始めてしまう極小ファッションメーカーのことである。その一つに「コムデギャルソン」もあった。これが後に80年代のDCブランドブームに火がつく。

60年代は大手繊維メーカーが流行を作ることが出来た。62年のシャーベットトーンや、67年のツイッギーミニだ。70年代には、打って変わって流行は消費者の中から生まれるようになった。

1974年3月:ケンゾーが日本で凱旋ファッションショーを開催
ブームだったミニスカートはこの頃にはすっかり下火になり、次はビッグスカートがトレンドになっていった。これは民族衣装に使われるような大きな布を腰で縛って、履くスカートのことだ。ビッグスカートのアイディアはパリで活躍が目立ち始めていた日本人デザイナー、高田賢三のものだった。三宅一生も似た思想の仕事をしていた。

ケンゾーの服は、直線裁ちでできていると言われた。これは洋服に和服の概念を持ち込んだということだ。洋服とは、人間の体に布をそわせて、体にピッタリと包むようにできている。袖の付け根などは曲線でできているのだ。これに対して、日本の着物や、世界の多くの民族衣装は、四角いままの布を着る。着物は四角い布を縫って形を作り、それをひもで縛り付けて体を包むのである。ケンゾーの服はその考え方を洋服に導入した。だから自然とぶかっと体を包むビッグシルエットになるのだ。

1970年代の食べ物

1971年4月:ミスタードーナツが大阪にオープン
72年にダンキンドーナツも日本に出店している。アメリカではミスタードーナツよりダンキンドーナツのほうが人気がある。しかし日本では流行しなかった。それは日本人向けに店を展開しなかったからだ。大手流企業に店の展開を丸投げで、ブランド作りもうまく行っていなかった。反してミスタードーナツは小さい会社だったのにも関わらず地道に日本人向けに展開していったらしい。これは前にタリーズコーヒーの本を読んだときに、書いてあった。
タリーズコーヒーが日本に出来るまでを書いた「すべては一杯のコーヒーから」を読んでみての感想(ネタバレあり) - not good but great


1971年7月:マクドナルド第一号店が銀座にオープン
確か三越の厳しい制約をクリアするために、倉庫かどこかの広い場所で、工事のシミュレーションを事前にしていたということを聞いたことがある。wikiにはこんなことが書いてある。wikipedia:日本マクドナルド

また、1号店として三越に拘ったのも、交差点角という絶好の立地条件から。「ここしかない」と、藤田は三越まで直談判に行くが、当時藤田と掛け合った銀座店店長で後に社長となる岡田茂から、「三越の営業の邪魔にならぬよう、火曜日朝に開店できるなら出店してもらっても構わない」と無理難題を突き付けられる。当時、銀座三越は月曜日が定休日で、これは『日曜日の閉店時刻(18時)から火曜日の開店時刻(10時)までに、水周りを含め全ての作業を終わらせた上で開店させることができるなら出店を許可する』といった意味であった。
作業できる時間は実質40時間しかなかったが、どうしても銀座三越に拘った藤田は、都内のとある空き地で銀座三越の出店予定スペースを再現させ、作業員に何度も何度もシミュレーションさせた。最初は60時間近くかかったが、練度が上昇すると、仕舞いには39時間足らずで作業を終わらせることに成功した。

1971年9月:カップヌードルの登場
袋ラーメンに、自分で切った野菜を入れて食べるというスタイルはすでに70年代以前に、一人暮らしの男には定着していた。最初は歩行者天国でプロモーション販売されたりした。ナウい若者は付属のフォークで歩きながら食べちゃうもんね、がコンセプトであった。後に起こる浅間山荘事件で機動隊の空腹をしのぐために、大量にカップヌードルが配布されたということを昔聞いたことがある。