爽快な気分になった理由
年齢を重ねるうちに言えなくなることがある。素直に思ったことでもそのまま言ってしまうと、誰かを傷つけたり、自分がバカだと思われるから、言うのはやめておこうという風になる。このエッセイ全体で、そんなことはお構いなしに「ブスは論外だ」とか「良いセックスをした後に、誰も戦争しようとは思わない」など、ビシっと言ってくれる。そういうところに爽快さがあり、勇気をもらったりするわけだ。
P27
みんなが本当のことに気づき始めているだけだ。すべては才能なのである。
村上龍は24歳で芥川賞を受賞し、「限りなく透明に近いブルー」がベストセラーになり、多額のお金を手にした。そのお金で海外を旅行し、F1を見たり、映画を撮ったりしたわけだ。このエッセイ全体を通して、「俺には才能がある。」「才能の無い奴はどうしもないクズだ。じゃあクズはどうすればいいのかって?そんなことは俺にはわからない。」という雰囲気が伝わってくる。それに見合った実績を残しているのがすごいと思う。映画はヒットしていないが笑。
p32
だから、どういう言葉を多用するかで、その生徒の欠落している部分がわかるわけである。それは「愛情」だったり「才能」だったり「ロマン」だったり「幸福」だったり「希望」だったりする。
こんなこと言われたら「そうかもしれない。」とすぐに思ってしまうのが僕の性格だ。自己啓発書を読む人、自己啓発的なTwitterのつぶやきにその考えを当てはめれば、そうなのかもしれないと妙に納得してしまうのだ。
筆者がこれを書いたのは20年以上前だ。当時でも雑誌「PHP」などには希望の無い人に向けた甘い言葉がたくさんあったそうだ。今、書店に行けば、そのような本はベストセラーになっている。
p46
才能には理由がない。才能のない連中は理由は欲しがる。
この言葉を読んで、以前読んだ「文体とパスの精度」を思い出した。
これは村上龍と中田英寿の対談やメールのやりとりを掲載したものだ。中田がちょうどペルージャで活躍していた頃のことが書かれている。P85(文体とパスの精度)
村上:日本では、まず「きっかけ」が必要なんです。『あの金で何が買えたか』という不良債権の絵本をつくったんだけど、必ず質問されるのが「この絵本をつくったきっかけは?」なんですよ。きっかけなんて、そんなものないよ。おもしろいと思ったら、おれはもうやってるんだよ。「中田選手とお友達になったきっかけは何ですか?」なんて訊かれることもしょっちゅうだよね。二年ぐらい前に会って、その後、気が合ったというか、お互いを尊重できるから続いているだけでさ。日本の文脈の中で充実感が無く生きている大多数の人を救うために「きっかけ」が必要なんだと思います。きっかけさえあれば誰だって小説家になれるし、誰だってセリアAの選手になれる、そんな感じ。充実していない人生を送る多くの人は「わたしにはきっかけがなかっただけ」と思える。中田:何事にも逃げ道が必要なんだ。
村上:一緒にワイナリーとか行っても、どうして作家とサッカー選手が友達なんですか?なんて、イタリアでは誰もそんなこと訊かないよね。要するに、日本では、きっかけと苦労で大半は説明可能なの。それで、最後の決め手が「秘訣」。
中田:それ、わかる。いるよ、サッカーが上達する秘訣は何ですかって平気で訊く人(爆笑)。
村上:「苦労」と「きっかけ」と「秘訣」。これが、日本のメディアのキーワードです。
就職活動の面接で「苦労」と「きっかけ」を話すのは定番である。面接官は自分のことを知らないので、そのようなストーリーを伝えなくてはならないというのは、十分承知であるが、常々「理由なんて特にないし、覚えても無いわ。」と思っていた。プログラミングをやって何かを作っても、やっぱり最初はおもしろそうだからという理由で始めることが多い。二次的な理由で何かの課題を解決するために作ったことが挙げられる。面接ではそれが第一の理由のように語っていたことが多い。つまらないジレンマを感じていたことを思い出す。IT業界で活躍している人のインタビュー記事を読むことがある。そこにも同じように「苦労」と「きっかけ」と「秘訣」が羅列されている。読むたびに思うが(釣り記事に釣られてしまう笑)本当はそうじゃないし、本当に感じていたことをメディアで言う人なんているんだろうかと疑いたくなる。
p73
ビビンバはハシシに合う。
ドラッグのことだ。本当にどうでもいい、今じゃ確かめようもない知識を時折織り込んでくるのが好きだ。
P95
オレはよく喋った。
だが、大切なことは喋らなかったし、喋れなかった。
ヤバいことも多かったからだ。
芥川賞後インタビューをたくさんされたことについて言った言葉。大切なこと、重要なことは誰も喋らない。
P98
吉沢もコーマニストだった。
下ネタだ。思わず笑ってしまった。
P154
すべてのメディアが、男のプライドを奪う方向で作動している。
自分だけの情報で動ける男は、あまりにも少ない。
だから冒険はほとんど成立しない。
ググっただけの情報だけじゃ、大多数と同じ考えになってしまう。自分もよくやってしまうので耳が痛い。例えば美味しいお店に行く時、食べログだけを見て行くのは寂しいことだ。友人の紹介や一回り年の離れた人に連られて、行くのが良いと思う。そのような店は多数決の論理で良いとされたお店とは違うのではないか。ネットでの口コミはそのレビューを書くような人の意見の集合だし、食べている途中で食べ物の写真を撮っても何とも思わない人の意見だから、自分にマッチしているとは限らない。
嫌な気持ちになった理由
終盤は早く読むのを止めたいと思っていた。こんなエッセイを読んで、他の人を批判しても、自分は何もしていないことに気づくからだ。何のリスクも負わずに、安全地帯からブーブー言っているだけであり、村上龍のような実績も無い。おまけに最後の山田詠美の解説で、ボロクソに批判されているのを読んで、はあと落ち込んでしまう弱い心を持っているのがこの本の読者なのだろう。
これと同じような本を19歳の時に読んだ。何の努力もなし、実績もなしの自分が高揚感に浸っていたのを思い出す。それをプラスに変えていけた部分もある。例えば、それまで以上に本を読むようになったし、ブログを書くようになった。出不精だったが、旅行もするようになった。しかし上記にも述べたのように、批判好きなところは今でも変わってない。そういうところがマイナスと捉えている。村上龍のエッセイの定番なのが、何かを批判して、「ああ嫌になってきた。俺は今、モナコのXXホテルでこれを書いている。綺麗なビーチを見ていると、日本のことを書くのがアホらしくなってくる。やめよう、やめよう。」というような流れだ。それと同様に、このような記事を書いていると、嫌になってきて、止めたくなってきた笑。今日は止めることにする。